以前参加している文芸同人誌『ignea』に投稿した拙作を再掲。読者のご高評を乞いたい。
白い猫
言葉を訳すこと、時々会話について
僕達は白い猫を飼っていた。
その猫がいつから僕達の住居に居着いたのかは今となっては僕には判らない。僕の同居人もまた判らないようだった。猫は既に僕達の、特に僕の生活の一部になってしまっていて、餌の準備も、排泄物の掃除も、日々の運動の相手も僕の役目となっていた。
猫は僕に対してしか鳴かないらしく、確かに僕が帰宅したり、同じ部屋にいたりすると微風のような鳴き声が聞こえてくる。それは、ともすると聞き逃してしまいがちだ
が、一度意識し始めると僕は猫の専従となってしまうのだった。
「猫は貴方にしか関心がないみたい」
同居人はそう云った。
猫が泣くのは、特に成獣となった猫が鳴く相手は、威嚇を除いて人間に対してだけだそうだ。それが生物としての年代を経て猫達が獲得した生存戦略であるらしい。幼獣の頃は親猫を呼ぶ為に鳴き声を上げるが、大人になったらあの人心をほだすような鳴き声は出さないと聞く。
この白い猫にしてみれば、それはこの住まいでは僕に対してだけで、つまり猫はそもそも僕にしか懐いていないのだというのが、同居人の謂いなのである。
「わたしが餌を用意しても、多分食べないと思う。餌を用意したことはないけれど。猫は気紛れのようだと聞くけれど、自分の世話人を頑なに変えない側面があるよう。それともこの猫が特殊なのかも知れない」
僕が猫の世話や遊び相手をしている様子を眺めながら、同居人はそう云った。
彼女は小さな出版社勤務で、その会社は海外のマイナー作家の翻訳を主軸とした事業を行っている。同居人は毎日会社に出勤する必要はないようで、主にキッチンがその仕事場だった。食事の用意は二人が交互にしていたが、そうした時以外同居人はキッチンテーブルに資料を広げ、分厚く大判な辞書を置き、パソコンを開いて作業を黙々と行っている。そして、キッチンは猫が立ち入らない部屋でもあった。
「今翻訳している小説にも猫が出てくる」
珈琲を淹れたマグカップを持って同居人は話し始めた。
「何て云う作家?」
僕は猫の咽喉を撫でながら訊く。猫は顔を上げながら目を細めてじっとしていた。
「きっと知らないと思う。初めて翻訳されるから。多分本国でも忘れられた作家」
リヴィングの椅子に坐って——そこが同居人の指定席だった——短く云いながら同居人は珈琲を啜った。同居人の言葉は一文が短く、それは同居人の仕事にも反映されているようで、何度か同居人の訳した文章——それは名前が表記されることがない下訳の場合が多いのだが——を原文と対比して読ませてもらったことがあるが、原文のセンテンスより短くなっている場合が多い。原文では一文であっても、翻訳は二文、またはそれ以上に分節化されていることが多いのだ。勿論、それで格段に読み易くなっていることは確かだ。
「言葉がなくても、音だけで意志が伝わるのなら、それが理想かも」
同居人は不意に口にする。
「それは君の仕事を否定することになりかねない発言だね」
僕は何気なく返す。
「そうかな。そうかも知れない。そうだね」
彼女は呟くようにそう繰り返した。
猫がいつから僕達の住まいに棲み着いたのか判らないように、僕達がいつから同居し始めたのかも僕には不明になっていた。勿論、ここでの僕達とは僕と同居人のことだ。同居する方が経済的だからと云う理由からだったかも知れない。しかし今でも僕達の生活レヴェルは変わっていない気がする。互いに仕事を持ち、自分自身を養ってゆける程度の収入はあった。それは同居人も同じだっただろう。しかし僕達は、収入が僅かであるが上がり、また貯金が出来たからと云っても、今よりも他へ引っ越そうという計画も立てることはなかった。そういえばこの住まい——賃貸の集合住宅だ——に何年住んでいるかさえ曖昧だ。しかし生活とは、それが共同生活であったとしてもそう云うものではないだろうか。ふと振り返って、思い出そうとしても、何処かに記録はあるのかも知れないが記憶には上ってこない雑多な出来事の集積なのだ。そう云えば、僕達は共に写真を撮ったことさえなかったかも知れない。
「この猫、いつからいたのだっけ?」
僕は同居人に尋ねた。
「猫についてはわたしよりも、貴方の方が詳しいでしょう」
キッチンテーブルのパソコンから顔を上げ、同居人は答える。
「でも思い出せないな」
「貴方にわからないなら、わたしにも判らないよ」
そして顔を再びパソコンの画面に戻す。モニタにはアルファベットが並び、赤字のマークが各所に入っている。
「それ、もう直ぐ校了するの?」
「そう」
簡潔に同居人は答えた。
紙の束がキッチンテーブルの上に乗っている。その多くが同居人の仕事が済めばゴミとして廃棄されてしまう物だ。
白い猫は僕の手の中で、ゴロゴロと咽喉を鳴らしている。
過ごしやすい気候だった。
快適さに慣れると、人は変化を求めなくなる。また、深く絶望した者も無気力さ故に変化を厭う。
いつの間にか確定してしまったかのような僕達の生活。
いつからか当然のように棲み着いたこの白い猫。
特段の理由や契機がなければ変化を求めない人間。
リヴィングで猫を抱きながら、僕はこの快適な気候の中に、何だか曖昧な息苦しさを感じた。
同居人の仕事がひと段落つくと——具体的には彼女の手掛けている原稿が校了すると、その晩は、膨大な書籍や紙片がそれなりに整理された彼女の部屋で一緒に寝ることが習慣だった。本に埋まった同居人の寝室に行くと、自分がここでは異物であるような感じを受ける。言葉が無数に書き連ねてはあるが、しかし沈黙したままの凡百の堆い書籍に見つめられながら、僕達は人間的で動物的な行為に耽る。
「猫のことを考えているの?」
行為の後、男女の人体図解の絵のように並んで横になったまま、天井や周囲の本棚を眺めていた僕に彼女の声が聞こえた。
「猫、鳴いていたよ」
「猫はいつも貴方には鳴くよ。一緒にいる時間は、在宅で仕事をしているわたしの方が多いけれども」
「一緒にいるって、単に時間や空間を同じくするだけじゃあないから」
「わたし達は、一緒にいると云えるのかな」
同居人は珍しく感傷的なことを云った。
「云えるよ」
僕は答える。云えるよ。今まで一緒にいた/今でも一緒にいる、そう云えるよ。
「現在完了形でそう云えるよ」
「変な云い方だね」
同居人は少し笑ったようだった。
「でも、最近時々思う」
裸だからだろうか、僕は少し自分の普段思っていることを素直に云ってみたい気持ちになった。別段、同居人との日常で過度な遠慮をしている訳ではないが、それは余り日常では話さないようなことだ。
「いつからこの生活が続いていたのだろう」
「いつから……」
「僕達、いつから同居し始めたのだろうって」
暫しの沈黙。沈思。黙考。
僕達は思い出そうとしている。共に暮らし始めた頃を。そして、更にはお互い初めて出逢った時を——。
無数の言葉——それはこの国の言語ばかりではない——で記録されたこの部屋を埋め尽くす書籍達は、何も教えてはくれない。
僕達は求めている情報へとアクセスする術さえ知らないらしい。否、そもそも求めている情報=記憶への回路が壊れているか、消えてしまっているかのどちらかなのかも知れない。
——そもそも、そんな記憶は最初からないのでは。
僕の背筋がふるえたのは、単に僕が裸だからではない。
「判らない。あの猫と同じだね」
同居人の声がする。
「あの猫がいつ来たのかも判らない」
「ああ、そうだね」
「わたし達がいつ出逢って、一緒に暮らすようになったのかも判らない——同じだよ」
「判らないと云うことが?」
「ええ、そう。猫が来たことも、わたし達が一緒に住み始めたことも、実はそんなに違いがないんだよ」
「そうかな。全く違うことだと思うけれども」
僕は数回瞬きをした。身体はそれなりに疲弊していたけれども、眠くはならない。
「同じことだよ。どちらも始まりは不明なんだから」
同居人はそう云う。それは彼女の言葉にしては意味が判然としない。彼女の言葉はもっと具体的で簡潔な印象があったが、それを改めなければいけないのかも知れない。それとも翻訳の仕事がひと段落つき、具体的な言葉を遣い過ぎてしまったのだろうか。
言葉を取り戻すまでには時間が掛かる。
何処かでサイレンの音が聞こえた。
それ以外はいつものように深い静かな夜だった。
「猫、大事にしてあげて」
同居人はそう云った後、暫くして穏やかな寝息を立て始めた。
僕は益々冴えた眼と意識で、しかし何処か穏やかでもの悲しい気持ちで、夜に身を任せていた。
猫の鳴き声は聞こえなかった。
彼女が出ていったのはそれから数日後のことだった。
いつ来たのか判らない猫がいるから、同じくいつ一緒になったか判らない自分は出ていくと云うのがその際に云っていた理由で、それは特段理由になっているようには思われなかったけれども、僕は不思議なくらい心に波風を立てることなくその申し出を自然と受け入れた。具体的な彼女の言葉は戻って来なかったのだろう。
白い猫は、僕の腕の中で心地良さそうに咽喉を鳴らしている。猫は小さなままで、成獣だとは思うがその声は相変わらず小さく、僕が椅子に坐っていると、足許に擦り寄って来て、それでも僕が気づかないでいると前脚を突き出し、僕の足をノックするように蹴り上げるのである。そうして僕は猫を抱き上げ、顎から咽喉の辺りを撫でると、ゴロゴロと小さく咽喉を鳴らすのだ。
猫と僕との関係はそうした行為に終始していると云え、そこに餌遣りと排泄物の片付けが加わるくらいだ。
小さな白い猫と僕との生活は、独居になってもそれ以前と殆ど変わることなく続いていった。
暫く猫を抱いていたが、ふと、猫はするりと僕の腕を抜けるようにして床の上に降り立った。それは全く優雅でしなやかな仕種で、白い毛並みは乱れることはなく、重力に逆らうことなく、しかし完全に重力に支配されている様子も不思議となく、宛ら天使が地上に降り立つとはこのような仕種なのかも知れないと、僕にしては柄にもなくロマンチックな印象を受けた。
猫は、僕の方へと僅かに首を巡らせ、足音もなくフローリングを歩き始める。それは今までにはない行動で、僕は暫し驚きその場に立ち尽くしていた。すると猫は歩行を停止し、また少しこちらを顧みる。付いて来いと僕を促しているのだろうか……。
猫の瞳は、それは明らかに獣のそれで、猫特有のものに違いないのだが、何処か見覚えのある人間のものを思い起こさせる。それは単なる既視感とするには、生々しいものだ。僕はこの猫に似た瞳を持っている人間を知っている……。
猫が再び歩き出す。僕はその後を付いて行く。
廊下を通って、猫はその部屋の扉の前で止まった。
そこは、嘗て同居人が使っていた部屋だ。
猫は両前脚を上げ、その扉に爪を立て始めた。
——開けろというのか。
僕はドアノブを握り、猫に配慮しながら嘗て同居人が使っていた部屋の扉を開けた。
そこは今となっては一種の空洞だった。部屋中に堆くあった膨大な書籍は既になく、僕が同伴したベッドを始めとした家具も一切除かれていた。同居人は綺麗に自分の生活の痕跡を全て消し去っていったのである。
——あれは……。
何もないと思っていた部屋の中に、それだけ目立つように一冊の本があった。
白い猫は開けられたドアの側に静止したまま、まるで精巧な置物のように僕の方を見上げている。
やはりその瞳は明らかに猫のそれなのだが、しかし僕に先刻よりも強烈な既視感を起こさせ、それは眩暈と共にフラッシュバックのように脳裡に幾つかの断片的記憶を僕の意志とは関係なく想起させる。
猫——、猫の眼——。
僕は軽く頭を振るうと、猫に見つめられながら室内へと這入る。
そして部屋のほぼ中心に置いてある本を手に取った。
元・同居人が去って、僕はこの部屋に這入ることはおろか、覗くことすらしていなかった。その必要もなかったし、使われていない部屋の掃除など何度もする必要もないだろう。元・同居人はきちんとした性格だったので、自分の所有物は自身で片付け、処分している筈で、実際そうだった。なのでここに残された本は、元・同居人が意図的に残していったものに他ならない。
それはハード・カヴァーの立派な装丁の本で、カヴァーには有名なコンテンポラリー・アートが使われていた。著者名はアリギエーリ・ユン。僕の知らない名だ。そして翻訳者として同居人の名が比較的大きな文字で銘記されていた。
恐らく、これが彼女名義で出版された唯一の翻訳書なのだろう。
僕との同居期間で、彼女は様々な仕事を同時進行でこなしながら、持続的にこの本を訳していたのだと僕は直感する。それに客観的証拠や、思い当たる出来事は特段ある訳ではなかったが、間違いないだろうと僕は思う。それは確信に近かった。また、この本の翻訳が完成したから、僕との同居を解消したのだろうとも推察された。
それは一方的な憶測だろうか。自分が彼女に対して何らかの生産的な影響を与えていたと思いたいのだろうか。つまりこれは僕の未練なのだろうか……。
僕は手にした本のページを捲る。
それは、小説のような、またはエッセイのような、どちらともジャンル分け出来ないような文章で、文体は簡潔、一文は短く、端的に文意を伝えている。全く彼女らしい文章で、そもそもこれは翻訳などではなく元・同居人自身の著作なのではないかと思う程だ。
カヴァー袖の部分に著者近影が載っている。モノクロの写真だ。その写真を目にしたことが以前にもあった。それはあのキッチンテーブルに乗っていた。同居人が仕事をしている最中、その資料として大判に引き延ばされた鮮明な写真があったのだ。その写真も、いつの間にかキッチンテーブルから消えていた。
また、いつの間にか、だ。
僕は思い到る。そしてドアの側に鎮座する白い猫を見る。
いつの間にか一緒に暮らしていた同居人。
いつの間にか棲み着いていた小さな白い猫。
いつの間にか消えていた著者の写真。
そして、いつか何処かで見た覚えのある猫の眼。
その眼は、何処かこの著者の眼と似通っている。
そうした連想が、全く根拠のない、そればかりか子供染みた稚拙な空想、妄想の類に他ならないことは明らかだ。そうした妄想、それはつまりこの白い猫がこの本の著者ではないかということ、また著者と何らかの関係があるのではないかという妄想。
僕は一度本を閉じる。そして最早元・同居人の名残りのない部屋を出た。
ドアの側の猫は別段僕を止めはしない。当然だろう、僕にこの本を手に取らせることが、恐らくその目的なのだったから。——これもまた、単なる妄想だろうか。
僕はリヴィングに戻り、椅子に坐る。それはマッサージチェアのように大型で、高く広い背凭れはリクライニングする仕様だ。僕は自分の気に入った位置に背凭れを倒し、本を胸に抱いたまま目を瞑る。
視界は閉ざされた分、他の感覚が敏感になる。
彼方で小さく猫が鳴く。
猫はまだあの部屋の前にいるのだろうか。それとも僕の後に続いてリヴィングに戻って来ているのだろうか。そしてこの椅子の側に控えているのだろうか。
否、猫の鳴き声は、恐らくそうした所から聞こえて来るのではない。
猫の声は、この手の内にある本から聞こえて来るのだ。
僕はこの本を読まないだろう。正しくは読めないだろう。きっとそこには僕の人生に関する何ごとかが書かれている。しかし、人は自分自身の人生について知りたいだろうか。知りたいと思う者もいるだろう。けれども、人は自分自身の人生を予め知ることは出来ない。
猫はそんなことを考えはしない。自由の概念がないものに自由は存在しないけれども、自由という概念に束縛されない別位の自由を持つことが出来る。猫はそうだ。
僕は目を瞑る。
猫の鳴き声を聞きながら、その小さな無意味な音に促されるように、僕は意識を内面へと降下させていった……。
*
挿絵のない歴史の教科書に退屈した子どものように、僕は何かを追って、そして穴ぼこに落ちた。そこに案内人はおらず、時々白い小さな猫が眼の前に現れては消え、不敵な笑みを浮かべて僕を誘う。僕は僕の身体を離れ、一冊の本の中に閉じ込められる。そこには僕についての何らかが書かれている。自分について書かれたものを、当人は読むことが出来ない。そこで可能なのは、未知なるものを体験することだけで、それが未来を迎えること、現在を生きてゆくことなのだろうという凡庸な結論に到る。
僕は猫に付いて行く。猫は透明になり、そして実体化し、時々不敵な顔をこちらに見せつつ、僕を導いて行く。
行き先は何処だろうか。
輝かしいユートピアか、暗く閉ざされたディストピアか。
天国か、はたまた地獄か。
僕は、住居ばかりか自分自身からも離れて、いつの間にか棲み着いた猫の後を歩いてゆく。
路は幾つも分岐していて、その場で猫は立ち止まる。どの方向へ進むかは自分で決めろということだろう。僕の選択した路を、また猫が先導する。
僕は割と元気な気分だった。ここは余り彩のない世界だけれども、胸を張って歩いて行けそうな気がした。
無数の選択と、そして喪失と獲得の物語を僕は生きることになるのだろう。それは見事に寓話化された凡庸な人生の物語だ。
でもそれが他ならぬ僕自身の物語だと確信している。だから僕は穴に落ち込んでしまっても、割と元気なのだ。何故なら、こうして路も続いており、奇妙な同伴者もいるのだから。
猫が小さく鳴く。
路は途中で途切れるかも知れない。また壁や崖に突き当たるかも知れない。僕自身が消えてしまうかも知れない。だが、道中の選択権は僕にも与えられている。
僕は胸を張って、元気に路を歩いて行く。
先には小さな白い猫いる。
最早、同居人たる彼女は、ここには存在しない。
糸、切れるとき
「感染るよ……」
相手の顔が近くに来たので、香子は思わずそう云った。
「何が?」
「……何かが」
「判らないよ」
相手の顔が更に近づく。その吐息が感じられる。瞳に映った自分自身の姿さえ香子には見えた。
動悸が激しくなっていくことに気づく。
呼吸もまた荒くなっていく。
「ねえ……」
不意に、香子はますます接近する相手から顔を背けた。
「……詰まらないなァ」
軽い失望感が、相手の声には滲んでいた。それでも未練があるかのように、相手は香子から直ぐに離れようとはせず、間近でその顔を覗き込むように見つめている。
香子は視線を逸らしたまま、身じろぎもしない。彼女の視線の先には、パソコンのモニタが光を放っている。他には散らかった何枚もの紙片、そして開かれた書籍、分厚いものは外国語辞典だ。
キッチンテーブルの上は、香子の仕事道具や資料で覆われている。
相手の眸には、まだ香子の横顔が映っている筈だ。
二人の間では、いつの間にか時間が止まってしまっているようで、ただ香子の前のモニタでカーソルだけが何事も関係ないように点滅しているだけだ。
キッチンは、香子と、その同居人である理乃(りの)が食事をする場だけでなく、香子が自宅であるこの部屋で仕事をするスペースでもある。香子の仕事は翻訳だった。小さな出版社に所属し、時には編集というよりも自分自身で翻訳まで担当している。小さな出版社だが、編集プロダクションではなく、自社企画として海外文学を中心にした出版の事業をしていた。下請けというなら香子自身がそうで、会社との契約関係は正社員としての雇用よりは、もっと緩いものだった。
「……アリギエーリ・ユン。知らないなァ」
テーブルの資料に眼を留めたのか、理乃はその顔を香子から離して、呟くように云った。
テーブルの前に坐ったままの香子は内心安堵と、一抹の虚しさを感じながら、それでも何気ない態度を取る。
「ええ、知らないと思う。初めて翻訳されるから。多分作家の母国でも忘れ去られている」
「ふうん……」
興味がないように、理乃はぼんやりとした返事をした。
理乃はいつも何処か気怠げで、殊に身体が弱いという訳ではないが、普段から捉えどころのないような人間だった。そこが香子と性格というか、気が合う要因だったのだろう。二人とも仕事をしていたし、経済的にはそれぞれ単身で暮らせるにも関わらず、同居しているのは、香子には自然な成り行きのように思われる。
孤独というものが、香子には判らなかった。
いや、正確には、孤独をネガティヴな感情として彼女は実感出来なかった。幼少の頃から、契機は忘れたが、香子は詩や小説の創作を好んだ。それは終ぞ誰にも見せたことはなく、確か中学を卒業すると同時に自ら破棄してしまったのだけれど、現在の翻訳や編集の仕事も、その時以来の関心の延長上にあるのは確かである。
創作にとって、孤独は感情等ではなく手段だった。独り切りにならなければ、それらは全て不可能ではないか――。
その心情は、今でも変わっていない。しかし、そうした香子の人生に進入してきたのが、現在の同居人たる理乃なのである。
「ねえ、その小説? 動物は出てくる?」
キッチンと続きになっているリヴィングのソファに蹲るように坐って、理乃は訊いた。
「猫が出てくる。白い猫」
「そう、猫は嫌い」
同居人は気紛れな時を除いて、文学にも、香子の仕事にも特段の興味を示さない。偶に話しの端緒を得る為に触れてくるだけだ。
「あなた、観葉植物も枯らしてしまうでしょう。動物なんて飼ったことあるの?」
「あれ、香子が質問してくるなんて珍しいね」
理乃は僅かに顔を挙げ、
「もちろん、飼ったことないよ」
と事も無げに云った。
理乃は、膝を抱えるようにしてソファに坐るのが癖だ。そして時々顔を膝に埋める。香子がキッチンで仕事をしている時、そうしていることが多い。二人は大してテレヴィも観ないし、理乃は必要な時以外スマホを触ることすらしない。新聞は取っていたが、理乃は次第に読まなくなっていった。
それは、理乃が次第に意識して外界との情報を遮断しているように香子には思われる。理乃は会社勤めだったので、毎日出勤して行き、外の様子はともすると香子よりも詳しい筈なのだが、それを積極的に香子に話すことも今では余りない。
以前は、理乃が休日になるとしばしば香子を外へと連れ出し、また単身足繁く外出していたが、最近は家にいることが多くなった。すると自然、香子と共にいる時間も増えていく。
「ねえ」
理乃はまた顔を挙げて、ソファの上から香子への声を掛ける。
「わたし、明日から泊りで出張なんだ」
――狡いよ。
「そう、なら、旅行の用意をしないといけないね」
リヴィングの方を振り向かずに、香子は答える。
「一泊だけだから直ぐに済むよ。いつもなら二泊三日なんだけれどね」
今年はいつもと違うんだよ色々と、と理乃は続ける。
いつもと違う。でも、あなたは同じだね。
本当に――?
わたし達、ずっと同じだったかな?
香子はそこで一旦保存キーを押す。
そして、手早くテーブルの上の書類や本を片付けると、リヴィングへと向かった。
「わたし、同居していても、親しい間柄であっても、事前の明確な合意って必要だと思う」
ソファに蹲るようにして坐る理乃に対して、自然と高い位置から香子はそう告げる。
「香子のそういうところ、ちょっと距離を感じるな」
香子を見上げながら、ぽつりと理乃は云った。
「雰囲気ないよ」
自身の顔が不意に歪んだことを香子は感じた。
「スキンシップくらい、素直に応じればいいのに」
理乃は香子の手を取り、自らの方へと引き寄せる。勢い、二人はソファの上に重なり合うように倒れ込む。
理乃の手が触れる度に、香子はその繊細さに驚く。爪の手入れはしていたが、普段付け爪をしたり、丁寧にマニキュアを塗ったりはしていなかった。理乃の特技は裁縫で、簡単なボタン付けから、パンツの裾上げや衣類の修繕、果ては私服のアレンジまでこなしてしまう。服飾学校にでも通っていたのかと訊いたことがあるが、皆独学であるらしい。理乃がアレンジしてくれた私服を、香子は今でも数着愛用している。
――糸なのかな。
相手の物理的な温もりを感じながら、香子はそう思う。
二人の間に何か共通するものがあっただろうか。また、何か共有するものがあるのだろうか。それは共に過ごしている時間であり、この部屋という空間だ。契機は何でもよかった。自然と二人は同居し、多くの時間と空間を共有している。
理乃こそが、唯一物理的にも距離の緩い関係を持てる相手に、今はなっている――。
糸のように、繊細な理乃の指が、香子のそれに絡んでくる。
「明日から出張なんだ」
吐息すら感じられる距離で、理乃はまた云った。
「だから、今夜は早く休みたい」
時、恰も夕刻である。
住宅街の為か、外からの音は聞こえない。それとも、必要以外で外出している人間等、もうここにはいないのだろうか。
元来無関係だった人間同士が自然な成り行きで同居し、ほぼ毎日のように共に食事をし、担当を決めて家事をこなし、そして時に求められるまま――少なくとも香子はそう思う――肌を重ねること。その繰り返しが、糸のように無関係だった二人を結び付けていくのだろう。生活とは、その糸を紡ぐことだと香子は思っていた。
「ねえ、キスしていい?」
理乃が呟く。
「感染るよ」
「何が?」
「……何かが」
「判んない」
そのまま、二人は出逢ってから幾度交わしたか判らない口づけをする。
西陽に、部屋が俄に翳った。
翌日、スーツケースを引きながら理乃が出勤した後、香子もまた外出する。
外は晴れ渡っていて清々しい。部屋に籠り切りになることが多いので、外出は密かな楽しみであった。
会社に寄り、所用を済ませ、帰宅したのは午後も遅くなってからだ。
部屋の窓を目にして、その場に足が凍り付く。
窓から灯りは漏れている。今夜、理乃は帰らない筈だ。
しかし、この部屋の鍵を持っているのは理乃と自分しかいない。
強盗だろうか――しかし、強盗が堂々と灯りを点けるとも考えにくい。女二人暮らしだから性犯罪者に眼を付けられたのだろうか――それも同じ理由で灯りを点けはしないだろう。
背筋を慄かせながらも、香子はスマホを取り出し、アドレス帳からある番号をプッシュした。
コール音が耳許で鳴る。三度、四度……。
「……もしもし」
六度目に、相手は出た。
「理乃、帰っているの?」
相手は直ぐに応えない。
「……うん」
か細い声が、微かに香子の鼓膜を打った。
「出張は?」
「……」
返答はなかった。香子は足早に歩き出しながら、
「今、マンションの前。直ぐ部屋に行くから」
と云い、キーを取り出していた。
果たして部屋には理乃がいた。
膝を抱えた格好で、ソファに坐っている。
「どうしたの?」
心配して香子は尋ねる。
理乃は外出着のまま、化粧も落としていない。眼の辺りが少し腫れている気がした。スーツケースも、部屋の隅に置いたままで、中身を片付けた様子もない。
「ねえ、香子、これからもずっと一緒に暮らそうよ」
顔を挙げ、何処か縋るように理乃は云った。
「何をいきなり……。今までもそうしてきたでしょう」
香子は困惑していた。しかしそれ以上に、理乃の方が混乱しているようなのだ。
「どうしたの、本当に……」
理乃は俯く。しばらくして、
「プロポーズされたんだ」
とビーズを床に落とすように云った。
次に混乱するのは、香子の番だった。
プロポーズ? 告白ではないのか? それなら以前から親しくしていた者がいるのか? 自分以外に――。
――この、同居人であるわたし以外に!
「ねえ、わたし、香子と暮らしたい。ずっと暮らしたい。勿論プロポーズも断ったよ。それに……、それにね」
理乃は香子の眸を真っ直ぐに見つめる。
二人の視軸が合う。
そこだけ、また時が止まる。
「子供が出来たんだ。わたしと香子の子供……」
そう云って、理乃は自分の、まだ目立っていない腹部を愛撫する。
「嘘……」
放心したような声を香子は洩らす。
「嘘じゃないよ。検査もしてきたんだ。今度一緒に病院に行こうよ」
その声はしかし、子供を得た喜びだけが表れたものではなかった。
「香子とわたしの子供だよ。きっと可愛いよ。すごく、すっごく可愛いよ」
追い詰められた者が、何かを振り払うように、理乃は狂喜を装っている風に云う。その言葉は次第に絶叫のようになっていく。
「子ども、好きでしょ。わたしは好き。ずっと欲しかった。ずっとずっと欲しかった。香子との子どもが――」
「違う……」
「違わないよ」
「違う。判る筈、あなたにも。妊娠したとして、それはあなたの子ども。わたしの子供じゃあない。わたし達の子どもなんかじゃあない!」
殷々と、香子の言葉が部屋中に反響した。
香子が自分の呼吸の荒さに気がつくと同時に、理乃の頰が濡れていることにも気づく。
「……そんなの、酷いよ」
――酷い。酷いのはどちらだというのか。
「相手の男、本気で好きだったんだよ。告白じゃあなくて、結婚を申し込んできたんだ。それくらいあなたにも判ったでしょう」
――酷い女。
理乃とわたしの子供だって? よくそんなことが云えたものだ。そんなことでわたしが喜ぶとでも思ったのか。そうだとしたら――。
「彼は別に、彼は……」
何かを吐き出すように理乃は云う。しかし、彼は、彼はと繰り返すだけで、そこから先の言葉は出てこない。
「知っているんでしょう。相手の男も。あなたが妊娠していること」
突き付けるように、香子は云う。
「……」
「本当に妊娠しているのなら、その子はあなたと、その男の子どもだ」
ゆっくりと、嚙んで含めるように香子は告げた。
暫しの沈黙。
そして、始めは微かに、次第に潮が満ちて来るように嗚咽が響き始める。
――糸が。
顔を膝に埋め、ソファの上に蹲る理乃を前にして、香子は糸が切れていくイメージに囚われ始めていた。
糸は、最初か細く儚いものに思われた。しかし段々と時間が経つに連れてそれは何本も絡み合い、縒り合わさって、強靭なものへと変化していっていると感じていた。それは目に見えなくとも、確かに実感出来た。出来た気がしていたのだ。
その糸が、解け、ぶちぶちと千切れて、その場に散乱していく。
か細く、繊細な理乃の指。裁縫が得意で、糸を自在に結び、繰り出すその指。
そこに何度も絡ませた筈の香子自身の指。
絡み合った指は、一時、とても強く、しなやかなものになってゆくと信じていた。
――それはこちらの勝手な願望だったのだろうか。
しかし今、糸は無残にも細切れに切れ、香子と理乃の間に無残にも散らかっているだけだ。
「……子ども、欲しかった。香子との子供……」
壊れた人形のように、理乃は顔を伏せたまま、暫し、そう呟き続けている。
それから理乃と香子は、同居生活を解消した。
しかし、日に日に理乃の腹部は膨らみが目立ち始め、しばらく香子は身辺の世話は焼き続けていた。理乃はそれを拒むのでもなく、殊更嬉しがるのでもなく、時折小さな声で、ありがとう、と謝意を表すのだった。
理乃が関係を持ったであろう男とは、香子は積極的に会おうとはしなかった。身籠った身体には酷なことかも知れないが、それは結局、理乃自身が解決する問題だと思ったからだ。
――いや、それだけではないだろう。自分は嫉妬し、怒っているのだ。何処かで意趣返しを期待しているのだ。
今、眼の前で理乃が静かに寝息を立てている。その胸と、膨らんだ腹部は規則的に起伏を繰り返していた。その無防備な姿を眺めながら、香子は無表情で思う。
――子どもに罪はない。酷い女はわたしではないか。
一度切れた糸はもう二度と繫がり、絡み合うことはない。
決定的に分かたれた二人の関係は、時間と共に完全に断絶することになるだろう。
何処で間違ってしまったのだろうか。
何が違ってしまったのだろうか。
子どもが欲しい、と理乃は云った。香子との子供が欲しいと。
しかし、香子自身、子どもを持ちたいとも思わず、理乃との関係が何処までも緩々と続いていけばよいと思っていた。
どちらが身勝手で、酷かったのだろうか――。
合意を取ることが親しい仲でも必要だというのが香子の強い心情だった。
言葉に出して、その言葉通りに理解し合い、互いに納得の上で何事かを行うこと――それこそが人間関係を円滑にするものだと信じていた。
しかし、自分の言葉は足りていたのだろうか。単にその場の欲求や利害をクリアにする為に一時的に出した言葉に過ぎなかったのではないだろうか。そうした言葉がいけないのではない。だが、生活を、互いに親密な仲を深めながらの生活を送っていく上では、それだけでは足りなかったのではないだろうか――。
後悔は、単に後悔でしかない。
――男、か。
二人の生活が破綻し、理乃との関係に整理がつくと、香子は翻訳中の原稿の束を抱えなら、雑然した彼女自身の日常へと戻ってゆく。
そこには、理乃の居場所はない。
アリギエーリ・ユンの翻訳は、少しのブランクはあったものの、着実に進んでいた。
「猫が出てくるんだ」
――猫は嫌い。
理乃はそう言った。
「わたしも、あなたが嫌いだったのかな」
白い猫が出ている箇所を何度も何度も読み返しながら、香子はそうひとりごつ。
印刷された校正用のコピー用紙に、赤字がどんどん書き込まれていく。それは糸のように絡み合うことはなく、意味がとれたとしても、多くの者にとっては乱雑な線でしかない。
香子はある妄想に捉われる。それは、理乃の産んだ子どもが丁度自分の頭の後ろに浮かんでおり、それが猫のように気紛れな笑みを浮かべるというものだ。子どもは赤子の筈なのに、まるで白粉を塗ったように白い。さながら、白い猫に扮しているようである。
「仕事、誰かの意見が聞きたいな」
妄想を抱えながら、香子は原稿を読み返しそう思った。
それは単なる人恋しさなのか、それとも自分の原稿に対する自信のなさなのか、または別の理由なのか、香子自身にも判らなかった。
片付けることの出来ない切れた糸は、まだ足許に散らかったままだ。
そうして、会社から紹介された原稿講読者を通じ、香子は早瀬という人物と出逢い、更には彼と同居することになる。
香子と早瀬の同居には、まるで取り込み中の原稿から抜け出したかのように、白い猫がいた。
共同生活
朝夢を見ることはなかった。
しかし、それは快適な目覚めを意味するものではなく、寧ろ目覚めたということ自体がどこか憂鬱を伴う行為だと早瀬は思う。
目覚めると身体が重く、倦怠感が全身を支配している。それは、早瀬の中に蟠っていた憂鬱が、寝ている間に膨張し、早瀬自身と重なってしまっているかのようだった。
何かに罹患したのかと思い早瀬は震えた。体温は平常だし、倦怠感以外に特段の異状はなかったので、日常生活は続けていたのだが……。
医療機関の特定の科に問診へ行けば、おそらく抑鬱症の診断を受けるかもしれない。処方された薬を服用して快復したという話も聞くが、しかしそうした日常に慣れてしまえばいずれはそれほど苦にならなくなるのではと、消極的な楽観が早瀬にはあった。
――根拠のない楽観は身を亡ぼすかも。
と彼女は云った。それは別段非難しているような口吻ではなく、自分の思ったことを率直に言葉にしただけのようだった。
忌憚のない考えを述べることは、時として角が立つ。それが否定的な意見である場合は特に。だが、彼女の物云いは早瀬にとってそんなに感情を逆撫でするようなものではなかった。
――そうかな。そうかも。そうだね。
そうして、早瀬は彼女と同居することになったのである。
早瀬と香子が初めて出会ったのは、初夏の頃で、毎年がそうであるようにどこか世間に浮足立ったような雰囲気が満ち始めた季節のことだ。
実際倦怠感に満ちた身体を引き摺り、地を這うようにして暮らしている早瀬には、「浮かれた」とか「昂揚感」とかは全く縁遠いものに思われる。
近年、夏は異様に暑く、そして冬は快適なほどに暖かだ。そんな気候がここ数年は続いていて、早瀬は云われてみればそんなものかと思っていたものだ。そうした気候と、街やメディアを彩る夏に浮かれた情報は実体を持つにしろそうでないにしろ、早瀬にとっては同じようなものだった。
そうした空疎な言語感覚や身体感覚を持つ早瀬にとって、香子の言葉はある時、実に生々しく響いた。
――仕事は主に自宅でやるのだけれども、構わない?
それは全く問題なかった。早瀬は勤め人で、平日昼間は在宅していない。数年後言葉だけは耳にするようになるリモートワークとも無縁だった。よって、香子の自室は寝室兼書庫になり、その主な作業場所は大きなテーブルのあるダイニングになった。夜遅くに帰宅しても、そのテーブルに齧りつくように坐り、膨大な紙片と格闘する香子の姿がそこにはあった。
仕事上英語が必要になった為、早瀬は英会話教室に通い始めた。翌年には海外出張をする命が下ったのだ(そして、出張自体は翌年に勃発した政変で白紙になってしまうのだが)。話せるようになることが優先だったが、次第に読むことにも興味が湧き、講師に初歩的なリーディング・テキストを紹介してもらったりしていた。
その延長で、ある日講師に紹介された洋書の読書会に参加する機会があり、そこで香子に出会ったのだった。
香子はその本の訳者だと自己紹介した。その時早瀬は課題図書に翻訳が出ていることを知らなかった。
――学生の頃の英語の知識を総動員して読みました。もっとも、学生時代はこうした文学的なものをあまり読んではこず、主に論文やノンフィクションの類ばかりでしたが。
早瀬の言葉に、香子は少し微笑んだようで、
――読みやすい文章でも、深く多様な意味を含んだものはありますから。
と答えた。
――成程。
成程、確かにそうだろう。また逆に読み手を拒むような難解な文章でも、その向こうに何かを伝えたいという書き手の叫びにも似たものが窺える文章もあるだろうが。
――翻訳も是非読んでみます。
そう云うと香子は会釈を返した。
次に香子と会ったのは、件の翻訳の感想を伝えた時で、場所は英会話教室近くの喫茶店だった。
――訳は原書に忠実でしたが、随分と雰囲気が違うんですね。
それが率直な感想だった。
早瀬の感想を聞いた瞬間、香子の顔に僅かに翳が差したような気がした。
――それがわたしの欠点です。それが原因で、作家に怒られたこともありました。
――翻訳者の解釈が入ってしまうのは、避けられない問題ではないですか?
――そうですね。他人の言葉を自分の言葉に置き換えることは難しいです。わたしは単なる橋渡しにはなれないのかもしれません。
香子は一口珈琲を啜った。
二人はどちらもブラックしか飲まないようだった。
――しかし誤訳や誤読は、新しい読み方や解釈を開くものではないのですか?
――そうかもしれません。ですがそれは、正しく元の文章を読もうとすることが前提です。
そうした会話が途切れ途切れながらも続いたのが二度目の出会いだった。
喫茶店やアルコールを提供する店などで定期的に面会する機会が増えても、香子との話題といったら言葉を巡るあれこれで、それは必然的に翻訳を主とする香子の仕事と関わりを持っていた。
――アリギエーリ・ユンという作家の翻訳をしているんです。ご存知ではありませんか。まあマイナーな作家ですものね。
その作家に関する仕事が、香子にとっていかに重要なのかは、早瀬にも直ぐに理解出来る程で、思い出してみれば香子はいつも、言葉の話題を口にしながら、現行の仕事であるアリギエーリ・ユンについて語っていた。
当然だが早瀬は香子の仕事相手ではない。また海外作家に造詣が深い訳でもなかった。だが、香子は早瀬との面会時において、その仕事の進捗と共に件の作家について語るのである。まるで、そうすることで香子自身の仕事を完成に向けて進めているように。
香子は特に饒舌だったという訳ではないが、話題は尽きることはなく、何度目かに会った時は話しがいつも以上に長引き、お互い終電を逃してしまった。タクシーを捕まえることも出来なかったので――というのは云い訳かもしれない。
後で聞いたことだが、その日は香子の仕事が一段落した日だった。
夜を明かす為にチェックインしたホテルの一室で、律動的な息遣いが収まった後、香子は云った。
――わたし、子どもがいるの。
それが初めて聞いた香子のプライヴェートな事柄だった。
――そうなの。
それを聞いた時、早瀬の心にはさざなみ程度の動揺もなく、どこかぼんやりとした状態で、香子の冷めた肌の感触を感じていた。
――貴方といれば、わたし、仕事も巧くいくかもしれない。
それから間もなく早瀬と香子は同居することを決めた。
子どもがいると云ったことについて、早瀬が香子に問い質すことはなかった。気にならなかったといえば嘘になるが、しかし特段改まってまで聞き出したいことでもない。自分と出会う以前に関係のあったパートナーとの間に子どもがいて、それが忘れられずにふとあの夜口を吐いて出たということは十分ありうるだろう。香子との関係が同居まで進展しても、そのことに関して話に出たことはないから、現に子どもがいたとしてももう法的な関係はないのかもしれない……。それは楽観的な考えだろうか。
――根拠のない楽観は身を亡ぼすかも。
別の会話の中で発せられた香子の言葉が甦った。
二人で新居を決めに不動産屋に行った帰途、早瀬は白いものを見掛けた。
それはもう夕刻で、夏の盛りを過ぎても西陽がやけに眩しかったことを憶えている。陽の光が網膜に反射した幻覚かと一瞬思ったものだが、よくよく見てみると、住宅街の道の端、電柱の傍に蹲るようにして、その白いものはあった。
――どうしたの?
――そこに、白いものが。
――どこ?
香子には見えないのだろうか。確かにそこで、その電柱の傍で白いものが蠢いているではないか。
――猫だ。
早瀬は云った。それは確かに白い猫だった。
――猫、ああ、本当、猫だね。
香子も判ったようだった。
白い猫は。早瀬に気づいたのか、ひょこひょこと跳ねるような歩き方で近づいてくる。
西陽を受けて、その白い毛並みは橙色に染まっている。
早瀬はしゃがみ込み、腕を差し伸べて猫を迎えた。
猫は当初警戒したように早瀬を見つめ、そして早瀬の手を見つめ、鼻先を早瀬の指に近づけていたが、しばらくして早瀬の手にそのふさふさとした頰をこすりつけ始めたのだ。
――確かに猫だね。
改めて確認するように香子は云った。
――貴方がそうと云ったから、猫だと判ったみたい。
その言葉の意味は早瀬には不明だったが、いずれにしても香子もこの白い猫を認知したようだった。
早瀬は猫を抱き上げる。
猫は嫌がることもなく、早瀬の腕の中に収まり、微かに鳴いた。
――貴方、猫が好きだったの?
――特にそうじゃあないけれど。
早瀬は言葉を濁したが、猫はすっかり早瀬に懐いたようで、その小さな頭を早瀬の胸に預けている。
――猫は嫌い?
早瀬は香子に訊いた。
――好きでも嫌いでもないかな。
――一緒に暮らせば、好きになるよ。
香子は微かに頷いた。
夕陽の所為なのか、香子の閉じられた口許が頑なな感じに思われる。
猫が再び小さな声で鳴いた。
こうして二人の同居生活は白い猫と共に始まったのである。
*
言葉について語ることは、必然自分の仕事について語ることだと、香子は常々思っていた。そして、眼の前の男とはその仕事の話が出来ることに、どこか安堵している自分がいる。
そう、それは昂揚ではなく安堵だった。
感情の起伏を、香子は嫌っていた。平穏なことこそ香子が求めるものであり、それは生きている上ではなかなか難しいことであると判ってはいたが、しかしそれだからこそ求める価値があるものだとも確信している。
そして、眼の前の男――早瀬との時間はそうした安堵を得る非常に得難い機会なのだった。
自分の仕事について香子は他人に語ったことはなかった。
それはかつての同居人である理乃に対しても同じである。
理乃は香子に対して安堵をもたらしてくれるものではなかった。寧ろ感情を波風立ててくれるものだった。
「言葉というものは、切れ切れのものですね。でも、話しているうちに、単語が集まって文になり、文が集まって文章になることで繋がりのあるものになる。そうした言葉の連なりが時として非常に魅力的に思えてしまうものです」
香子は早瀬に対してそう語っていた。
早瀬はアルコホオルの入ったグラスを傾ける。
氷が鳴る。
「言葉とは、それ自体、単語になり、単なる音にまで解体されます。単語レヴェルならともかく、音にまでなってしまうと大した意味を持ちません。文字にしても、平仮名一文字一文字は音を表すだけでそれがどんな意味を持つのかは判らないでしょう。でも単語になり文になり文章になるとその連なりは意味を持ち始める。当たり前かもしれませんが、それはわたしにとって極めて重要なことです」
「ああ、そうですか」
早瀬の返事は気のないようだったが、それが香子の言葉を更に引き出すのだった。
「わたしは、出来る限り正しく言葉を遣おうとしてきました。話す時もまた書く時も、主語と述語をはっきりとさせ、指示語の内容を明らかにしようと努めてきました。そうすることで言葉は、そして言葉によって捉えられた物事は、わたしの中にしっかりと根付き、意味を持つと思っていました。不安定な感情すらも、言葉で定義することによりわたしの中で明確化するものだと信じているのでしょう」
訥々と香子は語った。
早瀬は放任主義者のように、香子が語るが儘にさせてくれる。そして香子は一言一言注意深く話していった。
それは切り離され、散らばってしまった糸屑を集め、繋ぎ合わせるような感じだった。
それには香子の言葉を最後まで聞いてくれる者が必要なのだ。
「どうしてわたしの話しを聞いてくれるのですか?」
と香子は質問したことがある。
相手は少し困ったような表情をして、探るように言葉を選び、
「ええ、そうだなあ。あなたの話しを聞くのが好きだから――かなあ」
と答えた。
その時香子は、彼女にしては珍しく思わず赤面して俯いた。
数回の会話を重ねた後に、二人は同居することになった。
別段、香子にとってそれが念願の出来事であったり、感動すべき事態であったりした訳ではない。そうした感情の起伏はどちらかといえばご免被りたいものだ。しかし、それが自然な成り行きに思えたことも確かだった。
新居を決めた不動産屋からの帰途、西陽がけやに眩しかった。
「そこに、白いものが」
同伴していた早瀬が立ち止まり、そう言った。
早瀬が指さした先を見ても、香子には白いものなど見えない。
「ほら、そこに、猫だ」
猫……。
早瀬がそう言葉にすると、確かに電柱の傍に白い猫の姿が現れた。
それは、最初からそこにいたというのではなく、恰も早瀬が猫と名指した瞬間、何もいなかった電柱の陰に突然立ち現れたかのようだった。
「ああ、猫だね」
確かめるように、香子は云った。
白い猫はひょこひょこと跳ねるような歩き方で男の前に来ると、差し出されたその手に顔を寄せた。
そして早瀬が抱き上げると、嫌がる様子もなくその腕に身体を預けるのだった。
西陽が眩しく、猫を抱く早瀬の姿は黒いシルエットになっている。
香子は俄に強い眩暈を感じた。
その猫は早瀬の言葉と共に出現したようでもあり、また香子の中のイメージが実体化したもののようでもあった。
みんな妄想だ――そう香子は思う。
しかし、現在香子が訳しているアリギエーリ・ユンの著作にも猫が登場する。それも白い猫だ。香子が想像する猫に、眼の前の猫は酷似しているように思われる。
――猫は嫌い。
――子どもが出来たんだ。わたしと香子の子ども……。
かつての同居人である理乃はそう云った。
香子はそれを激しく否定し、妊娠した理乃をそのまま残すようにして二人の関係を解消した。
――どうして自分は今、理乃やそのお腹の子どものことを思い出したのだろう。
眩暈が強くなった。
「大丈夫?」
早瀬の心配する声がする。
「え、ええ」
気を取り直して、香子は答えた。
それ以上は言葉にならなかった。
仕事は順調だ。理乃といた頃よりもその進捗は芳しい。言葉は香子の手から零れ落ちることはなく、また無残にもバラバラになって無意味と化すこともない。早瀬を前にしてから、それは着実に意味の塊を作り上げている。
そう、今は。
早瀬は香子の手を優しく取ると、片腕に白い猫を抱えたまま、黄昏時の道を歩き始める。
香子もそれに倣って足を運ぶ。
白い猫が小さく鳴く。
この猫のように、アリギエーリ・ユンの翻訳も遠くない内に完成するだろう。早瀬と同居すれば、何故かそれは今よりも更に捗りそうな気がする。
なら、その後は……。
香子は早瀬と猫の方を見なかった。
それから香子は、自宅に着くまでいつも早瀬といるように話すことはなかった。
*
僕達は白い猫を飼っていた。
僕達の共同生活は、その白い猫と共に始まった。
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